Chappie : New Chappie
ARTIST / Chappie
TITLE / New Chappie
LABEL / sony music entertainment
DATE / 1999
TITLE / New Chappie
LABEL / sony music entertainment
DATE / 1999
1569。MYTUBEのVol.1で取り上げたChappieの集大成。さすがに10年(!)近く前のプロジェクトなので少し説明すると、GROOVISIONSというデザイン集団によって産み出されたキャラクターがChappieであり、顔のパーツは同じでありながら髪型や服装や性別が代替可能であるというもの。ある世代の人ならば一度は目にしたことがあるでしょう。今でも見ることがあると思いますけど。てか前なんかの雑誌で見たような。古い雑誌かな。視覚的な統一性を基盤として、可変的な音楽活動をおこなうアイドルは現在において重要な現象なわけであるが、Chappieを多少なりとも参照点とする必要性があると常々考えています。真のアイコンとしてのアイドルは、多くの要素が代替可能でありながら、視覚性を基盤にしている、という問題。もちろん程度の差はある。以前僕はPerfumeが後退であるといったが、PerfumeとChappieと初音ミクをその先進性において並べるならばChappieはまさに中間に位置するといえよう。そう考えると、Chappieの重要性は理解できると思う。しかし、である。問題は歌手であるという見地に立った場合、Chappieはそのアイデンティティーの擁立において重要な要素となる歌声にまで代替可能性を許している時点で失敗だったと思う。歌声の代替可能性は映像至上主義の現在においてさえ、おそらく成立しないのではないか(いまだに十全に成立していないと思われる初音ミクを「調教」し続けるPたちがそのいい例である、しかし一方でIdol M@sterなる現象もあるけど)。その致命的な欠陥は置くとして(そしていうまでもなく視覚的表象のターゲッティングが盲目的な消費者にむけられていないという欠陥もあるが)、Chappieのために集ったPたち(厳密には作詞や作曲を手がける作家たち)は特筆に価する。たとえば、M4は僕の敬愛するCoilによるものだし、M5は作詞を松本隆が作曲を草野正宗が手がけているし、M6は(駄作ながら)青春の小西康陽がいる。てかM2のRound Tableもそうだが、ある程度この辺でGroovisionが想定した層が浮き彫りになっているが。M9では作曲に全面的に愛する川本真琴が出てきているし(悲しいかなこれも駄作)、M10では作詞松本、作曲細野、編曲Tin Pan Alleyという気持よさがある。トリのM11も福富幸宏で占められている(もはや歌さえない)。シングル曲はさすがの精度であり、名曲ぞろいであるが、他のがなかなかひどいのでトータルでは憂鬱なひどさである。ましなのはRound TableによるM2くらいだろう。コンセプトさえ成立していない気がする。良いものができそうだっただけにいらつきが半端じゃなく、かなりの駄作にさえ思われてしまう。てかボーカルの代替可能性に話を戻すと、やっぱりこれだけ違うと気持が悪くないか。今でも詳細は明らかにされていないらしいけれど、M10など完全に細野つながりの森高千里だろう。アイデンティファイされてどないすんねん。個人的にはやっぱり本作でもM1に位置づけられている'Welcoming Morning'のボーカルが好きですね、川本真琴のささやきもあいまって。変に特徴的でないところが良い。この人で攻めればよかったのにね。ま、いいけどさ。