Glenn Gould : J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻 Vol.3(第17番~24番)
ARTIST / Glenn Gould
TITLE / J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻 Vol.3(第17番~24番)
LABEL / sony reocrds
DATE / 2007
TITLE / J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻 Vol.3(第17番~24番)
LABEL / sony reocrds
DATE / 2007
1164。グールド紙ジャケコレクションの7枚目にあたる。平均律クラヴィーア曲集第1巻もこれで最後である。というか3枚をあえて別々にリリースする意味は理解できないが、何かしら意味があったのかもしれない。この盤には平均律についての解説が付されており、それを総じて書くことが望ましいかもしれないが、それはまあ各人に任されることだろう。とりあえず、自筆譜のタイトル・ページにバッハ自身が記している言葉を引用しておけばいいことにする。「平均律クラヴィーア曲集、あるいはすべての全音と半音を、長3度すなわちド・レ・ミと短3度すなわちレ・ミ・ファとともに用いたプレリュードとフーガ集。音楽を学ぼうと志す若い人々が役立てられるようおに、また、すでに音楽に熟達した人々がとりわけ気晴らしとして利用できるようおに、アンハルト=ケーテンのレオポルト大公の楽長にしてその室内楽団の監督であるヨハン・セバスティアン・バッハが計画し、書き上げたものである。1722年。」重要なことは、平均律がただ現在のようにピアノ(とは限らないが)練習に不可欠であるという視座だけでなく、それがまさに「気晴らし」のためにも機能するというわけだ。それにしても平均律はデカルト的にいうならば明晰・判明である。そこにバウムガルテン的な感性学の適用が可能であるとすれば、それは明らかに誤謬であり、単なるたわごととして片付けられる。でも、まあそんなレトリックに溺れるのも悪くないではないか。そしてGouldのドラマトゥルギーは本作でも遺憾なく発揮されているということを、申し訳程度に付け加えておこう。帯には次のように書かれている。《バッハの音楽にある自由さを体現する、グールドの「平均律」》。しかし、決してバッハの音楽に自由があるわけではなく、グールドが自由なのであり、そこが肝要なのだろう。僕が演奏するのが好きだった第22番変ロ短調のフーガが入っています。