浜崎あゆみ : I Am...
ARTIST / 浜崎あゆみ
TITLE / I Am...
LABEL / avex trax
DATE / 2002
TITLE / I Am...
LABEL / avex trax
DATE / 2002
1486。僕の話を聞いて欲しい。90年代的なエゴを背負った「僕」の話である。浜崎あゆみをご存知だろうか。本作は彼女の4thである。本作をイントロデュースするのは、僕にとってのアイアムである。名づけ、あるいは触覚を通じた存在の確保である。本作が浜崎あゆみの最高傑作であることに異論はないだろう。4thというのもいい数字である。そしていうまでもなくまさにあゆ(おっと失礼)がそのカリスマ性の頂点を極めるのが本作なのである。浜崎あゆみが作詞をおこなっているのは周知の事実である。しかし意外と知られていない(というか最近まで僕が知らなかった)のが彼女は作曲もおこなっていたということである。それはCreaという彼女の愛犬からとられた名義によって確立されている。注目すべきは、4thにおいてCreaによって作曲された曲が競作も含めれば15曲中12曲にも上るということだろう。その後もCreaは登場するのだが、その後は徐々に露出を減らしていき8thではcrea名義の作曲はなくなってしまうのである。さて問題は、事実として彼女が作詞作曲をしているかどうか、ということではない。そのような疑いが頭をよぎる時点で僕は命を絶ってあゆにわびようかとさえ思うけれども、いろいろとかんぐられているのも事実でしょう。ポピュラー音楽の構造とは、それが顕著になった場合、パフォームする側とそれを演出する側ではっきりと二分化されるのは言うまでもないが、「浜崎あゆみ」はそのようなマリオネット化を拒絶することによって、いわゆる「アーティスト」としての戦略がとられている。ジェイポップをめぐる状況としては小室哲也のいくばくかスタイリッシュな演出が後退し、つんくのいくばくかコケティッシュな演出が前景化した時期だった(興味深いのは、本作では小室の名前があり、つんくの名前は1999年の2ndにあるということである。つまり浜崎においては時代状況は逆転している)。さらにはわれらがもう一人の歌姫宇多田ヒカルの存在も大きい。「アーティスト」の確立。エイベックスとしては浜崎を次世代の歌姫として確立させる必要があったのである。結局問題は、本作の楽曲群が彼女のものであると信じるかどうかであり、僕はそれを信じることで浜崎あゆみの歌をよりよく理解できると確信している。思えば、寸胴のグラビアアイドルとして登場し、その後人生を賭して(かどうかはしらないが)音楽へと挑戦した浜崎。僕が彼女を見たとき、彼女の歌い方はELTの持田とそっくりだった。そして、つぎに気づいたとき、彼女の歌い方はGlobeのKeikoにそっくりだった。浜崎とはエイベックスが生み出したキメラなのであり、ジェイポップ界のアンドロイドなのである。彼女の存在がいかにSF的であるかに気づいたとき、僕は浜崎のこの時期の曲ばかりを聴き始めた。'a song is born'はもともと好きな曲で、本作では浜崎ソロverである'A Song is born'が収録されているのがうれしい。これを置くとして、本作でいえば他にM5'evolution'あたりが好きである。M5はまさにSFマインドにあふれた巨視的始点を設定しながら、自己を対象化している。「二度とはちょっと味わえないよね」「だけど何度か進んでって」という言葉のずらし方が耳に残る。特に「進んでって」といういのは秀逸な言葉遣いである。言うまでもなくS<進んでって>Tなのだから。<進化>とは<進んでって>と言い換えられるべきなのである。この曲が2001年第一弾のシングルであることは浜崎にとって必然である。それは「2001年宇宙の旅」と響きあう。そして「幼年期の終わり」だ。浜崎の幼年期は終わり、次なる階梯を上ったわけだ。ゆえにアイアムを問い直すことになった。アイアムの後に来る言葉のひとつが「アーティスト」であることは自明であろう。さて、近年の浜崎をめぐる状況は、音楽市場の不況とともに、激烈化している。彼女はベートーベンのように長年患っていた内耳性突発難聴により左耳の聴力を完全に失ったとされる。これが言明されるべきかどうかは判断が分かれるかもしれない。時期の悪さも重なり再び不必要な疑念が噴出したからである。しかしわれわれは「アーティスト」であるあゆを信じる。もはやそれは信仰に近い。僕自身、彼女の最近の曲は'Blue Bird'くらいしか知らない。しかし僕は彼女を信じるのである。たとえしゃべりかたが無駄に痛くてもいいのだ。結局のところ、僕はあゆの顔がすごい好みなのだ。名盤。