My Tube Vol.3


Perfumeが後退であるというのは、ほぼ同時的に初音ミクが隆盛を極めたことを見ればわかる。両者の現象は同時的で相補的であったが、パフォーム概念において、どちらがSFかは明らかである。後者はオリジナルなき反復を許すシュミラークルであり、なおかつすでにIdleとしてのオリジナルとなったのである。すでに電脳アイドルを予言したギブスンの世界が到来するわけであるが、本作において、彼女はすでに「消失」してしまったとされる。しかしこの消失は常に十全な再生可能性を保障されたものである以上、現象自体が過剰にポエティックに変貌しているのである。初音ミクによるもっとも有名な「みくみくにしてあげる♪」ではすでに科学の限界を超えるということが歌われている。しかしそれはイコンに依存した仮像を内包している。それは物語として科学の限界を超えているのである。ここには人文がある。つまり単なるボーカロイドは名前を持つ初音ミクとして現象する、ただしこれだけではただ概念的に。パッケージに描かれた青毛のツインテールがパソコンへのインストールを要請する、これにより彼女が生起するのである。本作と「みくみくにしてあげる」には明白な自己言及が存在し、初音ミクの存在論的なパーソナリティをナラティブリーに記述されている。過剰に背景が連動される昭和歌謡曲と同一の構造を持っているということは指摘するまでもないが、初音ミクは現代ポピュラー音楽が抱えている問題を先鋭なかたちで再提示するのである。本作は音楽的には洗練がやや足りないけれども、「刻みつけたネギの味を今もおぼえているかな」という言葉によって、大きな意味を持つ。味覚と記憶のかかわりによって、プルーストのマドレーヌ(この場合嗅覚だが)を引き合いに出すのではない。端的に味覚によって初音ミクがパフォーマティブな「身体」として表象されるのである。初音ミクにおいてネギとは「かじられる」食事としてもっとも重要なマクガフィンなのだ。ここで問題なのはカントなのである。(ネギはそもそも初音ミクの設定ではないことに注意が必要だが。しかしすでにアトリビュートとして機能し始めている。このような拡張性と定着は初音ミク受容の問題と関わる)(未推敲、書きかけ)